「最大多数の最大幸福」

ジェレミ・ベンサムが提案した、「功利主義」の原則。
1. 全ての個人を平等に一単位として扱う。「何人も一人と数え、一人以上とは数えない。」←たぶん誤訳、一人「より大」とは数えない、だよな…
2. 「最大多数の最大幸福」 = 「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」。立法者の任務は幸福の総計を増やすこと。
3. 「貨幣は苦痛や快楽の量を測る手段である。」


やっかいな問題がある。快楽の総計を求めるには、快楽を、加算可能・比較可能なデータ型で表記しなければならない。(C++風に言えば operator += と operator < が必要)。
さて、このデータ型「幸福値」は、線形だろうか?


例題。100人の村がある。この村では100人に1人の割合で重い病気にかかる。その病気の治療には 100万円かかる。100万円の治療費を出せば患者は完治し、そうでなければ患者は短期間で死亡する。…という単純なモデルを考える。


貨幣は苦痛や快楽の量を量る手段である、とすると、1人の患者が治癒する快楽と死ぬことの苦痛の差 (本人と遺族の合計) は、100万円である。…これも仮定しよう。


大ざっぱに2つの政策を評価してみよう。(他にもいろいろな政策が考えられるけど)


(1) 特に対策なし。99人の健常者は何も費用を払わない。1人の患者は、運良く100万円払う余裕があれば治癒し、そうでなければ死ぬ。
(2) 100人の村人が全員 1万円ずつ治療費を出す。99人の健常者は払い損になる。1人の患者は1万円の出費で100万円ぶんの治療を受けられ、治癒する。


幸福値が線形なら、(1) と (2) に差はない。
(1) では 99人の出費 (=苦痛) はゼロ、患者の苦痛は、治療しても死亡しても100万円だ。村全体では 100万円の苦痛である。
(2) では村人1人あたり1万円を出して、合計100万円を払っているから、これも村全体で合計すれば 100万円の苦痛である。


でも、なんとなく、(2) のほうが「福祉が充実した村」って感じで住みやすそうな気がするのは、なぜだろう?